六、曼荼羅の諸相

1)壮麗なる極楽浄土世界−−浄土曼荼羅−−
 曼荼羅と称される画像は本来密教独自のもので、諸尊の集会(しゅうえ)図になる図式的(幾何学的)画面であることを特徴とする。つまり、画面を長方形や正方形で区切ったり、また正方形・円形・三角形を組み合わせ、その中に仏を描くことである。この諸尊集会図という点を拡大解釈して曼荼羅と称されるものがいくつかある。その一つが阿弥陀如来をはじめとする数多くの仏が集まる極楽浄土世界の情景を鳥瞰(ちょうかん)図的に描写した浄土曼荼羅である。
 平安時代半ばの政治の乱れ、また、1052(永承7)年から末法(まっぽう)の世に入るとする説が流布(るふ)したこともあって社会不安は高まり、阿弥陀如来の来迎(らいごう)救済を信じる浄土信仰が盛んとなった。諸尊それぞれに浄土があるなかで、阿弥陀如来の浄土が選択されたのは阿弥陀浄土経典の優れたところによるものであり、『無量寿経』の説く四十八の誓願や、『観無量寿経』の説く九品往生(くほんおうじょう)思想の強い影響力によるものだった。
 さて、浄土曼荼羅は、それぞれの発祥・伝承に係わる寺や僧侶の名に基づいて、智光(ちこう)曼荼羅《注16》・清海(せいかい)曼荼羅《注17》・当麻(たいま)曼荼羅の三種類がある。
 そのうち当麻曼荼羅は、中将姫蓮糸織成(ちゅうじょうひめれんししょくせい)伝説《注18》で名高い綴織(つづれおり)当麻曼荼羅を原本とするものである。763(天平宝字7)年の作とされ、奈良・当麻寺に伝存している。この転写が鎌倉時代・13世紀以降に行われ、数多く流布した。図様についてはここでは触れないが《注19》、転写本に二つの形式があることだけを紹介しておく。
 綴織原本の下縁部が欠失しており(転写された鎌倉期にもすでにかなりの損傷があったと考えられている)、そこに表されている九往生迎図中の聖衆の姿勢に差異が生じている。原本は坐像であった可能性が高く、転写本として最古例とされる建保本(1217年転写・現存しない)の流れをくむ文亀本(1503年転写・当麻寺蔵)は坐像形式となる。一方、法然の第一高弟・証空(しょうくう 1177〜1247)によって転写され数多く流布したものは立像形式となっている。
 絹本著色浄土曼荼羅(図6-1  浄土寺蔵)は、立像来迎形式になる当麻曼荼羅である。
絹本著色浄土曼荼羅
  図6-1 絹本著色浄土曼荼羅
浄土寺蔵

2)神仏習合のかたち−−垂迹曼荼羅−−
絹本著色春日曼荼羅
図6-2 絹本著色春日曼荼羅
西國寺蔵
 仏教が社会の各層に広く浸透していった平安時代後期、神は仏が衆生(しゅじょう)を救済するために姿を変えて現れたもの(権現(ごんげん))、つまり、仏が本地(ほんじ)(本体)で神は仏が迹(あと)を垂(た)れたものとする本地垂迹(すいじゃく)説が広く流布する。古来、神と仏は敵対するものではなく、仏教伝来以前から存在する神々と仏は共存(融合・神仏習合)することによって、新来の仏教が受容され広く浸透していった。このことは、日本文化の融合的・重層的特質でもある。
 そういったなか生まれたものに垂迹曼荼羅と称されるものがある。これも浄土曼荼羅と同様に、図様が一種の聖域空間を表し、複数の尊格が示されることにより、曼荼羅という名称となっている。
 絹本著色春日(かすが)曼荼羅(図6-2 西國寺蔵)は、奈良・春日大社の祭神・春日四所明神の信仰に基づき描かれたものである。図の上方に神社社域と御蓋(みかさ)山(三笠山)の景観、下部に同社の神使である神鹿を大きく表し、鹿の背に榊(さかき)の木と円鏡を中央に配し、その中の月輪中に五尊を描いている。春日鹿曼荼羅ともいわれ、鹿島神を強調したものである。

3)光明曼荼羅
 光明(こうみょう)曼荼羅は、金剛界大日如来の周囲に光明真言を表す24の梵字(ぼんじ)を円形状にめぐらしたもので、平安時代後期以降に流行した光明真言の信仰によって成立した。光明真言の効能は、この経文を数度耳にすれば一切の罪障を除滅でき、苦悩の境界を捨てて極楽浄土に赴かれるといわれ、「光明真言法」という修法として浄土思想とも結び付いて流布した。大日如来と阿弥陀如来の徳を合せ持つとされたのである。
 絹本著色光明曼荼羅(図6-3 西國寺蔵)は、中央に光明真言の梵字をめぐらす金剛界大日如来と下部に胎蔵界大日如来も併せて描くものである。
絹本著色光明曼荼羅
図6-3 絹本著色光明曼荼羅
西國寺蔵
(撮影 村上宏治)



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