一、密教と空海

 仏教は、インドにおいて紀元前5世紀頃、釈迦(しゃか)の思想や教えを中心として始まり発展したが、4世紀から6世紀にかけて、インド固有の民族宗教ともいうべきヒンズー教と接触・融合し、新しい信仰形態−−密教が成立した(初期密教)。我が国においては奈良時代に受容され、雑密(雑部(ざつぶ)密教)と純密(じゅんみつ)(純粋仏教)に分類する。
 雑密は、その名称が示すように雑然とした未整備の密教ということである。諸尊の陀羅尼(だらに)を唱える《注1》ことを中心とする呪術的色彩の強いもので、現世利益(げんぜりやく)を目的とし、組織的体系的教義が存在しない。
 続いて、インドにおいて7世紀頃に成立した『大日経(だいにちきょう)』『金剛頂(こんごうちょう)経』に基づく体系的で整備された密教(中期密教)が中国・唐を通じて、9世紀に最澄(さいちょう)(伝教大師・767〜822)と空海(くうかい)(弘法大師・774〜835)によって我が国へもたらされた。これが純密と称される。平安時代は、古代律令国家体制のゆるみに対し、鎮護(ちんご)国家に効験(こうげん)があるとされた密教の呪法に期待が高まったこともあって、急速に日本の風土のなかに展開していった。
 純密は、総合的に体系化された世界観と高度な儀式化を進めたもので、身・口・意(しん・く・い)という三密行(さんみつぎょう)《注1》を総合的に駆使し、仏教本来の思想である即身成仏(そくしんじょうぶつ)《注2》の思想を究極の目的とした。
 ともあれ、平安時代、最澄・空海以降、円仁(えんにん 794〜864)、円珍(えんちん 814〜891)、常暁(じょうぎょう 〜866)、円行(えんぎょう 799〜852)、恵運(えうん 798〜869)、宗叡(しゅうえい 809〜884)−−この8名を入唐八家(にっとうはっけ)という−−が、中国・唐へ渡り多くの密教に関する経典や曼荼羅(まんだら)・密教法具(ほうぐ)等を請来(しょうらい)し、日本仏教界は密教を中心としてにわかに活況を呈することとなり、それに係る美術も著しく多彩に展開する基盤がつくり上げられた。
 なかでも、空海の功績が最も多大であることはいうまでもない。空海は、804(延暦23)年に遣唐使の一員として入唐し、唐の都長安・青竜(しょうりゅう)寺の恵果(けいか 746〜805)から『大日経』『金剛頂経』に基づく密教の秘法を授かり、806(大同元)年に帰国した。この折の請来品は、我が国における密教、いわば密教美術の原点となったばかりか、日本仏教美術の発展に大きな影響を及ぼすこととなった。密教の体系を示す曼荼羅に関連する八幅の画像《注3》と五幅の祖師像、加えて密教修法(しゅほう)に不可欠の道具類の数々である。ちなみに、この五祖師像とは、密教伝持の祖師である金剛智(こんごうち)・不空(ふくう)・善無畏(ぜんむい)・一行(いちぎょう)・恵果を表したものである。これらを請来後、空海は竜猛(りゅうみょう)・竜智(りゅうち)を加えて真言七祖像とした。後世、これに空海を加え真言八祖像となるが、その原形はこの時のものである。これらは、各祖師の性格を表すごとく印相・持物を異にし、それが形式として継承されている一種の礼拝像形式の肖像といえる。
 絹本著色弘法大師像(図1-1 西國寺蔵)は、画面上方に空海の姿を、下方に高野壇上伽藍の景を描いている珍しいものである。
絹本著色弘法大師像
図1-1 絹本著色弘法大師像
西國寺蔵

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