小林和作>エピソード | |||||
大成した和作、その作品(2) | |||||
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この年、2月に須田国太郎が吐血する。4月に回復の兆しを見せる。 6月須田は夫人とともに全快挨拶と見舞いの礼に和作邸を訪れる。 7月再び吐血、京大付属病院に入院。 京大病院に入院中の須田国太郎を度々見舞い、一年分の入院費をそっと置き(病人が経済的な心配をしていたら治るものも治らない。 長期療養が必要そうだから、今後の病状を念入りに出来るだけ報せてくれ)と頼んで帰っていった。 須田はその見舞金に驚き、世話になっているのは私だ、私にも少しは蓄えがある。 どうかこれは先生にお返し願いたいと、和作に申しでる。 和作は須田の作品を時価よりはるかに高い値段で画商から買い求め、 その金を東山に持っていかせた。 須田はベッドの上に起き上がり合掌した。須田が亡くなるまでの4年半それが続いた。 東山忠司、戦後間もなく尾道を訪ねたときに、和作から鮭の切り身一辺とおにぎり二個を お土産としてもらって帰ったことがあった。 その時、小林家にはそれだけしか無かったのであろう。 和作は確かにそういう人であった。 「鉛筆の写生をすれば自然の骨格が掴める」「絵を見て絵の勉強をせず物を見て勉強せよ」「汽車に乗っても本など読まずに外の自然を見よ」「風景は風光明媚なぞとも言うが風と光りを大切にせよ」和作の口癖だった。(評伝211より) 同じく贋作問題について、贋作でもいいものは本物にしていただきたい。 本物でも出来の悪いものはどしどし贋作にしていただきたい。 和作には常に作品のよしあしが問題であった。 多作家であり乱作家であるという評判が東京あたりでたっているようだが、 私は少しも恐れていない。 要は絵が良いか悪いかが第一の問題である。(評伝225)
昭和34年 1月から3月まで国立近代美術館(東京)で開催された戦後の秀作展に「秋山早雪」が出品された。 3月、漆絵を制作する。 春、伊豆、房州、信越地方に写生旅行する。 4月『風景画と随筆』を出版する。 6月、小林和作小品展を開き、「春の山」「秋山」など15点を出品。 昭和35年 和作を名誉市民にという話が持ち上がる。 そんなものを貰うくらいなら、映画館の無料パスを貰ったほうがいい と和作は語る。 (評伝198) 3月、自ら主唱して尾道随筆クラブを結成。 『随想おのみち』を発刊し、無料配布した。 昭和36年 12月16日須田国太郎が肝性昏睡のため死去。 葬儀いっさいを京都在住の知人に取り仕切らせた。 尾道に都落ちした同時期に知り合った親友だけに須田の死は深い悲しみを与えた。
10月 西国寺の大茶会に茶席無茶会を始め、自ら終日席につめる。 以後、毎年の行事となった。 12月18日より朝日新聞連載の「新人国記」の広島県の部のカットを担当し、 「福山城(01−595)」「広島球場(01−621)」など10枚が掲載された。
昭和39年 1月日動画廊主催第一回太陽展に「海」を出品。 以後、49年まで出品する。 4月、生まれ故郷の山口県秋穂町の名誉町民となる。 和作の随筆の中に次の一節がある(評伝191) 私は臆せず絵をかく。それがために老来多少の進歩もしているらしい。自惚れかも知れないが70歳以上の画家でまだ将来の飛躍を楽しめるのは私一人ではないかと思う。 和作随筆集58p(地方画家の生活)あり。 「秋山雨後」を第七回日本国際美術展に出品。
昭和40年 一月、国立近代美術館の「近代における文人画とその影響展」に「干潮」「通り雨」など五点出品する。 「山湖の秋」を第33回独立展に出品。
昭和41年 六月から七月にかけて大阪と東京の梅田画廊で、小林和作・中川一政作品展を開く。 「海(三浦半島)(01−451)」を第34回独立展に出品。
昭和42年 五月、独立十八人展が東京銀座・資生堂ギャラリーで開催され、「海」を出品する。(「海(三浦半島)(01−451)」か?) 十月、画文集「春雪秋霜」を求龍堂より出版。 秋、河出書房の志賀直哉「暗夜行路」にはじめて挿絵を描いた。(評伝227)
十一月、尾道市より尾道市文化功労者として表彰される。 小林和作・福沢一郎・野間仁根三人展を大阪・梅田画廊で開催。 「隠岐白島」を第36回独立展に出品。 この頃、すでに足の衰えから、急峻な山などへの旅行はほとんどせず、 かわりに若い画学生らに写生に行かせ、その作品を買い取っていた。 昭和44年 2月、東京国立近代美術館へ「アマルフィ風景」「人形を持つ娘」「「伯耆大山の秋」「入海」「秋山」「北国の春」「海」の7点を寄贈。 四月、三十年ぶりに上京し、梅原龍三郎、中川一政、林武、高畠達四郎、鳥海青児、野口弥太郎、里見勝蔵らを訪問した。 帰途、木曽へまわってスケッチし、京都で絵付けをする。 「木曽御岳の春」「越中の山の春」を第37回独立展に出品。
昭和45年 八十歳を越えた小林和作を激励するため、日動画廊の主催で、 梅原龍三郎、中川一政、小絲源太郎、鳥海青児、野口弥太郎、高畠達四郎、林武の、 日本洋画壇の重鎮が和作を中心に八樹会を結成する。 その第一回展を日動画廊で開催し、「山の春」など油絵十三点、素描二点を出品した。 |
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