平田玉蘊>エピソード
四、サロンの花
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平田玉蘊  天保七年(一八三六)の大飢饉の年に続き、同十一年(一八四〇)に再び大洪水が広島藩内をおそった。この年、玉蘊の母が七十三歳の生涯を終える。みとった玉蘊はすでに五十四歳になっていた。
 もう一度、玉蘊の周囲が騒がしくなったのは『日本外史』川越版の爆発的ヒットと、『山陽先生行状』をめぐる論争である。山陽の弟子たちのお家騒動に過ぎないものが、今なら週刊誌ネタとなる騒ぎを呼んだ。当然、山陽の周辺まで好奇の目が向けられ、玉蘊は恰好の話題となり、画をもとめる人も増えたことだろう。
 安政二年(一八五五)の正月、玉蘊は数枚の「富士図」を画いた。六十九歳の玉蘊は依然としてサロンの花である。「百岳を以て諸君に贈る」という款記から、仲間に囲まれ絵筆を走らせている姿が思い浮かぶ。「七十玉蘊女史」と一歳年上に、茶目っ気たっぷり記したに違いない。
 この半年後に玉蘊は亡くなり、持光寺の両親の墓のかたわらに葬られた。山陽の高弟宮原節庵の筆による「平田玉蘊墓」の墓石の文字は、のぼやかで異彩を放つ。子孫の没落のため、碑文のない未完の墓となったことが惜しまれてならない。
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