平田玉蘊>エピソード
三、古鏡題詠詩と寺院障壁画
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平田玉蘊  年下の恋人、伊勢の俳人鶴鳴との出会いと別れで、玉蘊はスキャンダルに負けない強さを身につけた。文政八年(一八二五)、『芸藩通志』『尾道志稿』が完成し、玉藹のコレクションの古鏡題詠詩が載せられる。玉蘊、三十九歳。その生き方が公に認知された年とも言えよう。頼杏坪の長篇古詩は母を奉じて画業一筋に生きる清楚な玉蘊を讃えてやまない。当時の文化人たちの憧れの的だった清国の江芸閣までが名を連ね、玉蘊の名望の高さを知らしめた。
 六年後、『画乗要略』刊行の年に山陽が病没した。諸国に飢饉が起こり、江戸では鼠小僧次郎吉が礎となり、再三の幕府倹約令も暗雲をつのらせたに過ぎない。天候不順が続き米価は高騰し、広島城下では暴徒の打ちこわしが起きる。尾道では豪商橋本竹下が難民救済事業として、破損していた慈観寺本堂の再建にとりかかった。玉蘊が襖絵「桐鳳凰図」を描いたのはこのときと思われる。
 彩色の寺院障壁画を描いた近世女性画家を、玉蘊のほかに知らない。はじめに記したように尾道という文化風土、さらに玉蘊が養子玉圃を弟子として育てていたからこそ可能になったと言えよう。福善寺に残る「雪中の松竹梅」はさらに大作であり、西本願寺御影堂の襖絵に類似している。ひとつの道に精進した充実感を玉蘊はかみしめたに違いない。
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