平田玉蘊>エピソード
五、精神の自由
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平田玉蘊  文政二年(一八一九)、玉蘊の画風の変化について山陽が「玉蘊の画に題す」を記した。このころの山陽は玉蘊にやさしい。竹田に「吾、実に負き了んぬ」と、自らの非を悔いた翌年のことである。玉蘊は三十三歳、年下の恋人鶴鳴はすでに玉蘊のもとを去っていたらしい。
 山陽は玉蘊の画が「京習」を脱し「明清人の風気」を感じさせることに驚いている。清国の女性画家馬江香を手本にしたからだろう、と。
 こう山陽が記す背景には、文人画に憧れる時代の雰囲気がある。
 十八世紀に端を発したわが国の文人と中国の文人は違う。まぎらわしいから使ってはいけないという説さあるが、ともに共通しているのは精神の自由を求めていることではないだろうか。中国の文人がリッチな士大夫階級であるのに比し、日本の場合さまざまな階級の者から文人画家が生まれた。また中国の文人が経世済民の道を罷免された官僚予備軍やリタイア組であるのに比し、日本の文人たちはアンチ官僚といった雰囲気をたたえている。本家より一皮むけて割り切っていると言えよう。ともに職業画家を見下している風があるが、中国の文人に高雅な趣味人として気取りを感じるのに比し、わが国では画を売って暮らすことに心意気さえ感じていたようだ。誰に縛られることなく、自らの才能をたのんで生きるのだから、究極の自由なのだ。
 池大雅が『論語』の我は賈を待つ者なりの待賈(たいか)をもじって号にしているのも、彭城百川が「売画自給」の画印を好んで使ったのも、この心意気ゆえである。禄をはんでいる御用画家、狩野派に代表されるアカデミーへ在野からの反骨もあっただろう。
 田能村竹田が『竹田荘師友画録』に玉蘊について「画を売ってその母を養う」と記したのも、いまの感覚以上に意味が重い。「四季花鳥図」の巻物は、玉圃あるいは他の弟子の手本にするために画いたものだろう。また本展に忽然と姿を現した玉蘊の書翰からは女性らしい気配りをこめながらも男性と伍して立つ画家玉蘊が浮かびあがる。
 画を生活の手段にしていたが、玉蘊は精神の自由を求めて生き抜いた。本展の多彩な作品は、ひたむきに生きぬいた何よりの証である。
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