4. 結び


 現図両界曼荼羅を中心に、その構造と形色に託された教えについて述べてきた。
 真言密教を図絵を以って示そうとした曼荼羅の意味するところは多種多様にわたるが敢えて極言すれば“如実知自心”「実の如く自心を知る」という事に尽きると言ってよい。
 つまり私とは一体何であるかと自問する時、曼荼羅は真実の私に目覚めさせてくれるのである。
 結論として私とは、大いなる宇宙生命としての大日如来の“いのち”を、人といういのちとして頂いているのであり、それは自分の身長や体重などで表現される限定された小さな肉体ではなく、自分を含めて全てを包む物心一如の六大世界と同体の、大宇宙に連らなる“いのち”である。
 そして私達をはじめ全人類、全生物、そして大地も水も石ころも、森羅万象が大日如来の“いのち”の顕現であり、平等の仏性を頂いている。しかも各々がそれぞれの個性を発揮しながら、“いのち”はひとつという大命題の元に共存共生してゆく世界が説き示されている(本有理平等(ほんぬりびょうどう)─胎蔵界曼荼羅)
 と同時に密教の瞑想法によって自心を奧深く掘り下げ、その奧底に潜み、はるか悠久の大宇宙に連らなり清浄無垢なる深層意識に至る心(識)の開発をする事によって五智を得、迷いから悟りへと段階的に真実なる自心を覚るに至る過程をも示している。(修生智差別(しゅしょうちしゃべつ)─金剛界曼荼羅)
 ここに身も心も、宇宙生命(大日如来)と一体である真実の自分という“いのち”の存在に目覚めるのである。
 一粒の米も、一匹の虫も、一輪の花もそしてあの夜空の星々も、私達の“いのち”と連らなり、また生かし生かされ合っている存在である事を覚るのである。
 この真理を悟れば、おのずから自利(じり)(自らを活かす事)と利他(りた)(他者である人や環境を活かす事)が一致し(自利即利他、利他即自利)、この二利(自利と他利)の為に大日如来から預った“いのち”を捧げてゆく事を歓び(幸福)とする事ができるのであろう。
 曼荼羅はこのように、仏教(密教)の叡智が宝石のごとく散りばめられた、祈りと悟りの宇宙であると言う事ができる。

(こばやし ちょうぜん、浄土寺住職)



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