森谷南人子>エピソード
手紙に替えて(一)
青木 呆然(茂)
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森谷南人子 森谷様
 今日は突然にお邪魔しまして、ほんとうに失礼いたしました。つい夢中になって、見惚れていたものですから、時間の過ぎるのも打ち忘れ、永居しまして恐縮に存じます。
 私は今、やっと御飯を済まし、炬燵にすべり込んで、静かに頭を纏めやうとしています。私の心は、帰る路々、否、御飯を頂く時さへも、貴方のお作の事ばかりに占領されていた事が、今こうして静かに振り返って見て、漸く気がつきました。私の心はそれほどの驚きと、感激に満ちています。
 実はあの日、私は言ひ様のない寂しさの為めに、沈んでばかりいました。お宅へお伺ひするのすらおっくうで、××さん達を困らせぬいた揚句、××さん達は遂にああして一歩先きにお伺ひしたのでしたが、もう再び御作を見せて頂く機会もあるまいと思いまして、あとからとぼとぼとお邪魔したのでしたが、お宅を辞して帰る頃は、自分乍驚く程、晴々しい気分になっている事を知りました。
 それは、私のその沈んでいた心が、あのお作全体を通じた生命によって、蘇生したとでも言うのでせふいか……しかし貴方のお作全体から受ける感じは、どちらかと言へば、どれにも皆寂しい気分が湛うていると私には映りました。しかし其の寂しみが、たヾの寂しい心の投射でなく、そこにはしっとりとした、涙の洗礼を経た落ちつきと、懐かしさと、慰めがありました。私の寂しい心は、そこに一脈の慰撫を感じ、涙の泉の交流によって、晴れ晴れあかるい心に還る事ができたのだと、私は思うのです。
 私はそこに、芸術の世界の尊さを識ります。芸術、宗教、音楽と、それぞれに形こそ異なりますが、その奥の殿堂に捧げられた、生命の灯火は、相共通した「見えざる力」を、私達の心の世界へ与へてくれます。それ等は何れも、真理といふ神の懐を母胎とした、地下水の流れのようなものだからです。
 私はもっともっとお邪魔がしたかったのです。私ひとりでもいい、あのアトリエに坐って、1時間でも2時間でも、見つめていたかったのです。あのお作を見つめている事は、私自身の心の底を見つめる事でした。アトリエから降りる時にも申しました様に、私はつい二三年前までは、絵画は目で見るものだとばかり思っていたのですが、最近漸く心眼で見る事を識りまして以来、始めて貴方のお作に接したのです。笠岡でお描きになったというあの「麦の熟れる頃」とでも題する作は、貴方御自身も、旧作を見る事は苦痛だとお仰る様に、写実一点張りで、色彩の華かなのに比して、心の底には比較的静かな影しか投げないものでしたが「早春」前後に至って、私は貴方に異常な心的革命のあおりなさった事を、痛切に感じました。貴方もその事をお認めなさるように、奥様もそう仰しゃっていたれましたし、誰れもがそう感じる事は、多少でも「絵心」を持つ者の等しく識るところです。
 だけど、私は貴方のお作全体を通じて、現在の画壇に於ける貴方は、結局貴方お一人お世界である事を思うて、其の御精進が如何に苦しいものであるかという事を御推察し、貴方の男々しい前進を尊敬と虔ましやかさを持って眺めます。一人で歩るく道は、私のようなものでさへ、実に苦しく悩ましい心の世界とす。貴方のお歩きになった跡が、あヽした立派な創造の世界として私達ちの前に現はれる事は、私にとっては大きな悦びでした。だからこそ、私は涙の泉の底のかはくまで、お作の前に坐っていたかったのです。
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