森谷南人子>エピソード
桃の道
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森谷南人子  四季を歩くというこの展覧会のテーマに沿えば、なんと森谷南人子の作品には道が多く描かれているのだろう。なんでもない普通の田舎の風景を描く南人子の作品には、田畑の畦道、農家の玄関先の道、谷あいの道など、多くの道が出現している。田園に取材した風景画家なのだから、道が描かれていても何も不自然ではないことだろう。だけど、道があるということは、そこに人の生活があるということである。当り前だと言われればそれまでだけだが、暮らしの匂いのプンプンする道を、なぜ南人子は沢山残したのだろう。そんな疑問から、いつもある物語を思い出す。それは、やがて作品のなかの道が象徴めいた何かを暗示しているように感じてくるのだ。こらからは、前項と違い想像をたくましくして、南人子を探る手だてを試みてみたい。

    晋の時代、武陵に住む漁夫がいた。ながらく川に沿っていくと、突然桃の花が咲く林に行き当たった。漁夫は不思議に思いさらに進むと山に行きついた。その山には微かな光がもれる小さな洞窟があった。漁夫はそこで船を降りて、洞窟に入っていった。人一人がやっと通れるくらいの洞窟である。やっとのことで洞窟を抜けると、そこには今まで見たこともない風景が漁夫の目の前に飛び込んできた。広々とした平野によい田畑や美しい池がある。そこに住む人々は見慣れない服装をしているが、皆穏やかな雰囲気をもっている。漁夫はそこで、住人の家々でたいへんな歓待をうける。数日たって帰路につくときに、住人からこのことを外の人には言ってはならないと忠告されて別れた。漁夫は帰りの道沿いに目印をあちこちにつけていった。城下に帰ってから大守に一部始終を話すと、部下をやって漁夫とともに行かせる。しかし、目印がわからず結局もとの道を探すことはできなかった。以来、そこにたどり着いた者はいない。

   晋の時代を生きた陶淵明(365年−427年)の『桃花源の記』の物語の大筋の内容である。夏目漱石が私叔し大きな影響を受けた陶淵明とは、中国九江の南の廬山の麓に住んだ教養深い隠遁者であった。田園生活のなかで胸中に宿る思いを表出する他に類をみない詩人であったという。ともあれこの物語は、のちのち理想郷のことを桃源郷というようになった源の言葉ともなった。田園詩人陶淵明が廬山の麓でおくったライフスタイルと残された作品は、以後の多くの中国の文人たちに影響をあたえていく。日本においては、特に江戸時代後半に文人たちが隆盛を究めた頃があり、当然に陶淵明の生き方を理想の一つに挙げたことと思われる。そうした文人たちが好んで描いたものの一つに山水画があった。神仙思想を根底にもつ山水画は、実際の風景に取材していても、それは脳裏に浮かぶ精神世界の風景画であるといわれている。一種の理想郷を脳裏に宿して画面に移植した心象風景であった。いずれにしても、別世界の非現実的自然風景画なのである。鑑賞者はそうして書かれた画面を前にして、絵のなかに入り込み融合することに努めていった。画家の精神世界に共に遊んだのである。
 その陶淵明が、人々が生きていくための理想とする環境を田園生活に見い出したのなら、いったいその風景とは、どのようなすがたをしているのだろう。感覚的だけど、僕にとってはそれが南人子の田園風景であり、そこに描かれた道なのである。いつも決まって陶淵明とだぶってしまう。そして、前述の桃花源の物語をつい思い出してしまう。想像であるが、南人子は桃花源の記が示す桃源郷を根源にして筆をとっていたのではないだろうか。そう思いながら、だからいつも漁夫を南人子に見立ててしまう。その不思議な村に行きつくまでの道のりや村の情景を、桃畑や谷あいの景色を漁夫なりに代わって写しとめていったのだと、尾道や笠岡の周辺の田園風景を描くとは、現実の世界を画面に写すと同時に、それは非現実の不思議な村の風景でもあったのではないだろうか。あまりにも、現実にある風景を描いていた南人子の作品からすると唐突すぎる意見だと言われればそれまでだが、劇的な要素の少ない作風を見れば見るほど、純粋に桃花源を思い浮かべる。物語の挿絵を見ている感覚に陥るのである。南人子の作品は伝統的な感性に基づいた山水画である。だけど、従来の山水画にみる厳格な精神よりも、もっと現実的に人が生活する場においての理想郷を描くことを理念においていたのではなかろうか。道は陶淵明の作り出した物語の村に通じるものであり、行き着く先の村の縦横の道でもあろう。道とは交通手段に欠かせないものではあるが、今日一般的な無気質なものではなく、非現実の隠された場所に通じる道だと考えて南人子の風景画を見てみると、また違う一面が発見できる。
 道と人は、南人子がこよなく愛した田園風景に登場する主人公だったのかもしれない。陶淵明の理想郷を南人子の絵画世界に見いだせはしないだろうか。そうした接し方で南人子にふれたくなる。さあ、自分の意識のなかの桃源郷とはどんな世界だろうか、イメージしてみよう。やがて、南人子の田園風景の道に降り立ち、そこを歩くことができるようになるだろう。そうすれば、僕たちは、あの村の田園に行くことができる。

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