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森谷南人子

 いま手元に一冊の資料がある。「1915−1916 MORITANI」と最後のページに書かれた小さなスケッチブックである。大正4年から5年の間に描かれたこのスケッチには、風景、人物、樹木などを主に鉛筆で部分的に着彩がほどこされている。面白いことに、署名されたとなりのページには、その頃に購入した一部だと思うが雑誌『白樺』と『美術新報』についての明細を記している。原文のとおりに書くと『白樺』は二月、三月、四月、五月号を、『美術新報』は一月、二月、四月、五月号を幾らで買ったか金額を添えて記述している。南人子もご多分に漏れず、当時の美術紹介雑誌を愛読していたのであった。さらに、これとは別にスケッチブックのはじめのページには、大正5年元日29日(1月29日と思われる。)に京都丸善書店に注文したメモが残されている。そこには、ドラクロア、ティントレット、ルーベンス、レンブラント、デューラーの画家の名前が書かれ、それぞれにやはり金額が付け加えられている。走り書きなので詳しいことはそれ以上はわからない。『白樺』と『美術新報』については、大正4年なのか5年なのかも不明である。だがその当時に『白樺』で紹介された代表的な作家を挙げるとミケランジェロ、ジョット、デューラーなどで先に挙げた画家たちと符号する。『美術新報』も西洋美術の紹介に、日本古美術や当時の美術界の情勢を紹介する評論雑誌であった。  では、このスケッチブックが描かれた二十歳代後半の森谷南人子にとって、どのような時代だったのだろう。1915(大正4)年といえば、京都市立絵画専門学校の卒業制作に南人子が「麗艶」という人物画を発表して二年が経過していた。そしてこの年は、河合卯之助を中心に村上華岳や長野瀬晩花らと共に南人子も参加した雑誌『光芒(コロナ)』が発刊され、さらに同誌が主催した第一回絵画工芸品展に出品している。また京都から生家のある岡山県笠岡市に転居をした年でもある。そして、重要なことに南人子と雅号を定めた頃でもあった。この時期の南人子は、日本画はもとより油彩画や版画をかなり精力的に制作をおこなっていた。特に版画については、河合卯之助の影響があったようで、かなり真剣に取り組んでいる。マルチ作家であったと言えるが、自己の新しい日本画の創造へ模索を繰り返していた見方が本当であろう。南人子の周辺の日本画家たちは、日本画の伝統のなかに西洋美術の知識と技法を摂取することを、当然のことのようにおこなわれていたからだ。南人子もその渦中にいた。
 南人子が影響を受けた西洋美術には、油彩画や版画にみるセザンヌ風の風景画、静物画、人物画や、岸田劉生を中心にした草土社の影響を受けたと思われる作品が現存しているのが確認されている。また雑誌『光芒』の表紙を担当した南人子のアール・ヌーボー風デザインなど挙げられる。当時の京都日本画壇が、新しい絵画を創造するために、いくら西洋美術を摂取しようとも、たえず京都画壇の伝統的な写生を基本としていた。しかし、『光芒』は京都の写生画の伝統的様式を否定するような展開をしていたことを加味すれば、いかに南人子が急進的ともいえる態度をとっていたかがうかがえる。まさに南人子は、西洋美術をむさぼっていたと、形容するにふさわしい頃だったことが想像される。この手元にあるスケッチブックには、デューラー風の樹木が数多く描かれているが、このことからも一つの裏付けに挙げられよう。ちなみに、生き物のようにうねる幹や枝葉の表現は、のちの南人子の個性の確立へ影響を及ぼし、1915(昭和15)年に制作された「桃花処々」の制作後の新聞掲載談話には、はっきりと油絵の手法を取り入れたと述べている。以上のこれらが南人子が研究した西洋美術の全容でないにしても、イタリア・ルネサンス以降の印象派や後期印象派に至るまで、広範囲にわたる西洋美術が興味と研究の対象であったkとが、このスケッチブックからもうかがい知れることは確かだ。
 京都市立絵画専門学校で日本画の伝統的手法を習得した後の、いまから自前の絵画表現を作り出さなくてはいけない南人子の姿を、このスケッチブックからもかいま見ることができた。では、南人子のこの時点での予測だが、さぞかしこれから先の南人子は個性的な作品を描いていくだろうとかってに想像してしまう。あの、今から思えばこれが南人子の作品かと首を傾げさせる「麗艶」を描いたのだから余計にへんな想像をしてしまう。だが、しがいに油彩画も版画も消えていくのと平行して、本業の日本画も画面の構成から色彩の処理、人物や樹木などに西洋美術の影を落とすが、全面には出て来ないようになっていった。おそらくは、できるだけ西洋的な要素を表に出さずに隠していった試みだと考えたい。それは、郷里笠岡に帰って海岸や田園風景を頻繁に取材した結果だからかもしれない。仮定だが、南人子は、ごく普通の田舎の風景にこだわるようになると同時に西洋へ別段の執着をしなくなり、東洋的もしくは日本的なものへと心理的な比重が増していったとしたら。そこで初めて南人子の個性が確立していったのだと推測したい。郷里に帰ることが、西洋的なものをふまえた東洋へお回帰のポイントであり、南人子のつぎの道のはじまりだったとするのはどうだろう。

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