平田玉蘊>エピソード
2003年、尾道に戻ってきた玉蘊の古鏡
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平田玉蘊
g−040「楊貴妃図」
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「楊貴妃図」(図録より転載)
6年前に入船裕二先生が『尾道今昔』を書かれた中で、文化文政年間(1804〜29)は尾道の第二期黄金時代といわれるが、北前船の交易で港は殷賑(いんしん)をきわめた。さらに神辺には当時、日本一の詩人といわれた菅茶山の廉塾があって、文人は神辺に茶山を訪ね、その脚で尾道の豪商の別邸へ。千光寺道に建つもう一つの銅像、豊後の田能村竹田(たのむらちくでん)もその一人である。尾道の豪商であり町年寄りだった亀山、橋本、鳥居、渡橋(おりはし)らの別荘はサロンであった。尾道に文雅の風が興るのは自然で、今も「尾道は文化滴る町」といわれるのもこの時代、化政期の余韻であろう。
その頃頼山陽との艶聞を残す女流画家が尾道にいた。平田玉蘊。風評はいまも山陽に寛で玉蘊に酷である。玉蘊の死から140年、そろそろ冤罪を解き、「玉蘊忌」の声が上がってもいい時期ではなかろうか。
平田玉蘊は尾道の土堂町一里塚にあった木綿問屋福岡屋の次女である。天明7年(1787)に生まれた。父五峯は絵を尾道出身の画家福原五岳に学んだ。玉蘊また幼児から八田古秀(こしゅう)に学んだ。天保2年(1831)江戸で発刊された「画乗要略」に挙げられた女流画家人22人の中に玉蘊の名がある。「玉蘊筆法勁秀(ひっぽうけいしゅう)、ぶ媚(び)をもって工(たくみ)とせず。名は三備の間に著わる」と。勁秀は力づよくすぐれていること。ぶ媚はなまめき、こびるであるが、どんな画風をいうのか、玉蘊の絵はぶ媚でなかった。三備は備前、備中、備後である。と言われている。
 
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賛詩などに残っていたため、その存在は知られていたが、行方がわからなくなっていた玉蘊の愛蔵品の古鏡が、2003年、入船先生の手で故郷「尾道」に戻ってきたことは、何かのめぐり合わせであろうか。

平田玉蘊 画像
 
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