平田玉蘊>エピソード | |||
玉蘊と山陽の出会い | |||
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◆文化4年(1807)秋、頼一門は父祖の地、竹原に集い、尾道から玉蘊姉妹が招かれた。妙齢の画家姉妹の登場に男たちの詩情はいやがうえにもかきたてられた。二日にも及ぶ詩会で、山陽は玉蘊の絵に賛詩をつくっている。(上掲書より要約)
「福翁」は序章に記した福原五岳。玉蘊の絵には五岳の画風がみえると山陽がことさら強調したのはなぜだろう。のちに山陽は玉蘊の画風が京風を脱し中国風になったことを褒めているが、この時点では玉蘊の画風を批判しての表現とは思えない。むしろ父春水たちとも交遊のある五岳の門下であることを、玉蘊の名誉としてうたったと思える。(上掲書)
【汚れを知らぬ気品は、まさに仙女。この人が名花のあでやかな姿を描こうとは。人々は知るであろう。今夜、山門の会式で、香をたいた仏壇の前に名花一枝をお供えすることを】 「絶塵の風骨これ仙姫」 一点の塵もついていない清らかな気品は、まさに仙女、この世のものとは思えない美しさだ。 「かえって画く 名花 濃艶の姿」 ――この人が、こんなあでやかな牡丹を描くなんて。こんなに才能豊かな女性が、この世に存在するなんて。知らなかったなあ。(上掲書)
「木筆花(もくひつか)」は辛夷の漢名。秋なのに山陽はあえて早春に咲く辛夷に姉妹をたとえた。漢名の筆からの連想か、或いは白い清楚な花の印象からとも考えられるが、常に行を共にしている姉妹へ軽い揶揄をこめたのかもしれない。「嬋妍(せんけん)」はたおやかで美しい貌の意、玉の浦(尾道)を形容しているが、玉蘊姉妹にかかるともとれる。 山陽にとって玉蘊姉妹は、ずっと以前から特別の女性だったような気さえした。頼家の集いにこんなに相応しい女性はいない。よく来てくれたなあ。山陽の詩には、理想の女性にめぐり逢った喜びがこめられている。(上掲書)
玉蘊姉妹は二日の詩会で帰るつもりだったのを、一日延ばしてこの行事に参加した。 しばらくして義卿、飯熟せり、とよばう。余、目ぬぐいて起つ。舟内の人、初めより倍せるが如し。淡粧素服、風神超凡なるは玉蘊なり。げん衣せい飾、光艶外射する者は、その妹、玉葆なり。 「さあ、飯が炊けたよ」と義卿は、山陽のふとんを引きはがして肩をゆすった。山陽は目をこすりながら、起きた。そして玉蘊姉妹を見た。 それまでふとんを引きかぶって眠っていた山陽の目に、秋の瀬戸内海の陽光はまぶしい。昼寝からさめ目をしばたかせている山陽の前に、薄化粧に垢抜けた装いの姿形の類稀な女性がいた。それが玉蘊だった。 「淡粧素服」はうす化粧でさっぱりした装い。中国の「梅后伝」に「淡粧雅服」という語が使われている。一方、妹玉葆を形容している「衣飾(げんいせいしょく)」は、晴れ着のこと。「」が黒を意味し「素」と対を成す。姉玉蘊と妹玉葆の形容を、山陽は対句仕立てに凝っている。「光艶」は麗しい艶、それが「外射」するとは、記紀の衣通姫や源氏物語の輝く日の宮を、連想させる。(上掲書) 山陽の「淡装素服」好みは、質素な女性というより、ソフィストケートされた感覚の女性に憧れていたという方が、的確だろう。(同) 脱藩事件後の謹慎がようやく解け、厳格な学者の家に育った山陽の目に玉蘊姉妹がいかに映ったか、新鮮な驚きを与えたに違いない。玉蘊を評して「うす化粧でさっぱりした装い、自分の生涯の伴侶にふさわしい」と友人への手紙に書くほどの人目惚れ具合であった。(入船先生『尾道今昔』) ◆この姉妹の舟遊びの参加を、山陽の父春水も喜んで、自賛の詩をつくっている。翌朝、玉蘊が別れの挨拶に絵を一枚持っていくと、山陽の叔父春風は玉蘊にもう一枚描かせて、甥の山陽には『舟遊記』を書かせた。これが『竹原舟遊記』である。玉蘊は早くから頼春風や菅茶山に学んだという。この舟遊びのあと、春風は女弟子をおおいに自慢し、杏坪も山陽に向かって、「嫁にもらったらどうだ?」と薦めるようなこともあったようだ。 この二人の出会いは周囲にも喜ばれていたようだ。 これだけ周囲が盛り上がる中、玉蘊本人は頼山陽に対してどう思っていたのだろうか。 画家として自立していこうと意識があったから風雲児でありながらも知的才能に溢れた山陽を自分に相応しいと思ったのか。この当時、春水は息子山陽の放蕩に頭を悩ませたと言うが、身分も家族ぐるみで保証付きの問題児の魅力に惹かれたのかもしれない。実際、玉蘊の叔父は「姪には普通の男はふさわしくない。それ相応の男を探さなければ」と言っていたそうだ。 |
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