平田玉蘊>エピソード | |||
尾道が生んだ美人画家姉妹 | |||
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平田玉蘊が生まれた当時の尾道は北前船の寄港で大変賑わっていて、日本全国にもその名をとどろかせていた。
尾道の郷土史家・故財間八郎先生執筆『夕映え』の冒頭にこのような一節がある。 「みなと尾道」 尾道のいのちは港であった。 平城や平安の京と九州の大宰府とを結ぶ唯一の幹線道路の山陽道は、その頃は瀬戸内海から遠く北に離れていまの「宇津戸」や「御調町」の山路を通っていたので、当時の尾道の繁昌はすべて港によって生み出されたものであった。 「おのみち−尾道」という地名は北と南の海に挟まれた狭い帯のような地形。つまり「山の尾」の道が通じていたので「山の尾の道」が詰まって「おのみち−尾道」という地名が生まれたのだと伝えている。 後に浄土寺山・西国寺山・千光寺山―瑠璃(るり)・愛宕(あたご)・大宝(たいほう)の三山が北の風を遮り、前に向島という天然の防波堤を控えて波おだやかな尾道は、瀬戸内を上下する船にとっては一休みする恰好の船だまりであった。 今から約800年間、平安朝の終わり頃。尾道北40キロの甲山を中心としたところに、広さ613町歩。本年貢1800石という荘園―太田庄があった。後白河院領であったが、ここの貢米を京へ廻送するために我が尾道を太田庄の外港に指定された。これは平成15年から834年前のことで、尾道という海港が始めて天下公認の良港として、将来の輝かしい発展の第一歩を力強く踏み出した記念すべき事件で「みなと尾道」の市民の永遠に記念すべきことである。……(『夕映え』冒頭より抜粋)
尾道の郷土史家・入船裕二先生執筆、『尾道今昔』より抜粋。文化12年(1815)10月5日、茶山は尾道に来て旧友の墓参りをする。「油屋にて昼食。彦五、信儀、勝島の墓を省す。女画史および山田を訪い油屋に帰り小酌、白甫氏を弔う。夜、諸子来り会す」玉蘊のことオチ「女画史また来る」と記す。「子瑶、翼斎、孟慎、敬之四人の墓、数百歩の間に在り。歴訪して作る」という七言絶句も作っている。子瑶は島居子瑶、翼斎は勝島敬仲、敬之は宮地敬之、孟慎は玉蘊の義理の叔父、草香孟慎、儒医である。墓は孟慎の信行寺の外はいずれも光明寺。白甫は松本慶福、墓は西国寺である。女画史はむろん玉蘊。光明寺の長い石段を下ると玉蘊の福岡屋はすぐである。 茶山を訪ねて文人墨客が神辺に来、その途中を尾道へというのが当時のパターンだが、文政6年(1823)はことに神辺参りが目立つ。2月、豊後から田能村竹田。7月には美濃から梁川星巌が妻の紅蘭をともなって来る。9月には讃岐の後藤漆谷(しっこく)が逗留し、数日後、茶山もいっしょに尾道へ。10月2日から5日まで橋本竹下の別荘に滞在する。「橋本氏の別業に同宿する」という茶山の詩がある。別業は別荘である。 翌7年11月には山陽が橋本竹下、宮原節庵らと訪れる。京へ帰る山陽と、前夜尾道で杯を挙げた竹下らはそのまま神辺へ押し掛けたのであろう。茶山は「橋元吉諸子を携え、子成を送って遂に同じく草堂を過ぐ」という詩を詠んでいる。橋元吉は橋本元吉、すなわち竹下、子成は山陽である。宮原節庵は尾道の豪商渡橋(おりはし)貞兵衛の5男。はじめ山陽に師事し、のち昌平黌に学び、天保12年、京都に学塾を開く。書は師の山陽を凌ぐと言われた。持光寺にある玉蘊の墓碑は節庵の筆である。
持光寺にある五峯の墓の碑文には、幼年時代から能楽と絵が得意でその舞い姿には神が宿っているようだと皆からほめたたえられたことが記されている。さぞかし美少年であったろう。 この他に、「配内海氏は4女を生み、皆、画を善くす。次女豊、尤も妙を極めりと、世の稱するところとなる」と、玉蘊の絵が世間の評判になっていることが記されている。 五峯の絵の師は、福原五岳と伝えられる。(池田明子『頼山陽と平田玉蘊』より要約)
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