洗心
中 国 新 聞
平成13年12月4日(火)

タイトル
気合入れて食べ
          突貫工事


大飯に梅干し、メザシ、たくあんをのせた
「根性どんぶり飯」

根性どんぶり飯

三次市の小川徳一さん(六五)は、鳶(とび)職で鍛えた大きな体にその年齢を感じさせない。今も若い後継者の指導で関西、関東方面に出かける。
一九六八(昭和四十三)年、大阪万博開催の二年前、大手建設会社から突然、「職人二十人ほど連れて大阪に入ってほしい」との依頼。福山から着の身着のままで建設現場に向かった。
そこでは大幅に遅れた工期にいら立つ施主と、全国から集まってきた千六百人もの作業員に驚いた。計算と理論でくる社員と、勘と経験で動く鳶職人との間で小さなけんかが絶えなかった。

当時三十二歳の徳一さんは、意見の食い違いから、同年代のやせた現場主任と五階の鉄骨の上で向かい合った。「ここまで来てみぃ」。足場の鉄骨は十八センチ幅程度。十五メートルの長さは気が遠くなるような距離。その恐怖に失禁しながらたどり着いた主任は泣き崩れた。
「よう分からんが、そのころから共に毎晩、酒を飲むようになったんです」。理論と経験がうまく同調したのか、その後感情的になることはなかったというが、きつい仕事は相変わらず続いた。「食わにゃ、体がもたんけぇね」。ひたすら飯を食った。
当時はやったのが通称「根性どんぶり飯」。一度の食事に軽く二合入るどんぶりに大盛りの飯。そこに梅干しとメザシとたくあんをのせて二杯食べた。時にトンカツや魚が付くが、いずれにせよ食べたら少しでも寝る。気合を入れて食べないと仕事に腰が入らない。皆が同じ物を、同じだけ食べる。主任も食べた。

建物が完成したのは開催日の二ヶ月前。二十人ほどで出てきた大阪だったが、きつい仕事に残ったのは十人足らず。主任は二回りも太り、いつしか広島弁を話していた。万博には約六千五百万人の入場者があり、「月の石」などは四時間待ちが当たり前だった。
主任とは百八十三日の会期最終日に会ったきりだったが、数年前、大手建設会社役員として、しまなみ海道の橋りょう工事を紹介するテレビに出ていた。「ち密な計算と裏付け、そして自分の経験と勘を信じて橋を造った」。徳一さんは少し苦笑いをしてそのテレビを見た。懐かしかった。いつしかあの当時の自分たちに戻っていた。

写真 ・ 文 村上宏治


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