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小林和作>エピソード | ||
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何がそう仕向けたのか、和作は写生に力を注ぎ始める、 和作の再出発 |
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昭和10年 この時期から精力的に写生をする。 キャンバスの実写をやめて鳥の子紙に鉛筆と水彩で直写しその上にペンの黒線でアクセントをつけた写生帖を作り、それをもとに画室で記憶を加えてタブローを制作しはじめる。 私が尾道へ移居してからもう一年になる。 移るときにはどうも都会気分が尾をひいて、田舎では落ち着けず。 ふらふらと東京へ出ることが多くて、 せっかくの尾道行きも家族を迷惑さすだけのことで、しまいになりはせぬかと思ったが、その後の様子では別にそうでなく。 私は元来、山口県の海岸で育った田舎者で、都会趣味も付け焼刃である分子が多いと見えて、その牽引から離れるにさして苦労もいらず、 東京で一つ陽気にやりたいなどと、よからぬ了簡に駆られることもなくて、 その間、京阪へはたびたび出たが、東京へは、今年、独立展の時に一年振りに出て見たが、多忙さと落ち着きの悪さとで思ったほど面白くなく、 用事がすみ次第早々に引き上げたが、この分では、一年引っ込んでいる間に、 よほど習性が変わってきて、田舎住まいも板についたように思われる。 私は元来、深山や湿山は好きでなく、カラリとした岩山や禿山で、南画的の趣きを持つものを愛するのだが、 東京近傍は、海に山にたいていの土地へは行って見たが、 多くは失望して再遊し得ず、遂には写生地を北海道や小笠原島へ求めたりしたが、 尾道へ来ては、その意味では至極満足して、この上はこの美しい島山をかくに、 極めえて要領のよい画式を発見して遅疑することなく、さらさらと多くの絵を作ることにしたいと思っている。 (重要参考随筆・「田舎住まい」図録28p※初出「みづゑ」366号に「田舎住ひ」) 3月 東京府美術館開館記念現代総合美術展に「バラ咲くカプリ島」を出品。
小林和作と高橋玄洋氏の雨についてのエピソードが残っている。 そう言えばこんなことがあった。 映画館からの帰りだったと思う。先生と私は雨を避けて尾道の裏長屋の店先でラムネを飲んでいた。「山奥や海岸で、突然雨にあったらどうする」いつもの例でトンチのような話だと思って「さあ、木の下へでも駈け込みますか」と適当に答えると、「木なぞない」と吐き捨てるような言い方である。カッパを着ると言ったら、カッパはない、と言われるに決まっているので暫く黙って様子を伺っていると、「雨を観るんだよ」とこれも吐き出すような言い方であった。怒気さえ感じられる言い方だった。私は20歳、先生が60歳の時である。(『水彩』高橋玄洋「小林先生の写生旅行」より抜粋)
尾道に来てから悩んで模索して描いたそれらの絵が和作再出発のスタートになった。 一人のよい画家は画法上や生活のうえで幾多の試練を経てそれに堪え抜いたときにできるのである。試練の中には単なる人の力では切り抜け難いものもある。そこに至ってはその人の天運ということもある。努力と神助がその人を作るようにも感じられる。とにかくその道を強く歩み、必要な経験を持ってくると、意外な光明もあることは幾多の先輩が皆いうことである。(評伝151「画道」より) 昭和11年 この頃より毎年春・秋二回のスケッチ旅行を行い、紀州、山陰の海、大山、尾道附近などの風景を写生する。 |
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