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小林和作>エピソード | ||
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都落ちと同時に得たものは生涯の親友、須田国太郎 | ||
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昭和7年 富豪画家時代は終わりを告げ上落合の借家に移転する。 この頃より零落の迷いからか観相家や占者を訪ねて運勢を観てもらっている。 昭和8年 「現代風景画選集」に第十一回春陽会展出品の「島」が収録された。
同時に会員になった人に京都の洋画家・須田国太郎がいた。彼は京都帝国大学での中井正一の先輩で、昭和8年に尾道の中井宅を訪ねて「尾道内海」を描くなど、尾道に深い縁のある画家だった。昭和15年頃からは尾道出身の医師・大林家が優れた須田コレクションを形成し、その一部は今日、ふくやま美術館や下蒲刈島の蘭東閣美術館に所蔵されている。
倒産して生活が成り立たなくなったのと、東京に嫌気がさしたのか、和作は東京脱出を決心。富豪時代に買い集めた油絵は東京銀座・紀伊国屋のオークションで処分された。 和作の絵を見る確かさがうかがえる作品群である。 これが日本でも初めての油絵のオークションだったであろうと、高橋玄洋先生が言っている。 4月 南人子らの世話で妻子を連れて尾道に都落ちする。 「須田君と私は昭和9年に一緒に独立美術協会に入会したとき以来の交際だが、知り合うとすぐ懇意になり、東京の独立展からの帰途、私は誘われるままに須田君の京都の鹿ヶ谷の宅へ寄って、一泊して夜更けまで語り合ったことがある。」(評伝141) 和作が京都の須田家に立ち寄って夜更けまで語り合ったのは、東京を脱出して尾道へ向う途中だったのではないだろうか。独立内部のごたごたが解決して、京都へ帰る須田と一緒に東京を発ち、そのまま尾道まで落ちて行くに忍び難く、妻と子供たちを先にやり、自分は誘われるままに須田と共に京都で途中下車をしたのではなかったろうか。和作はそれほど寂しかったに違いない・・・・。(評伝141) 46歳にしての挫折がもたらしたものは、のちの半生における画家としての開花と、須田という親友を得たことであった。 |
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