小林和作>エピソード | |||
豪遊と初入選と妻の感情 | |||
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大正12年 9月1日上落合の自宅で関東大震災にあうが被害はなかった。 家族と女中と一緒にいたが、自分ひとりで庭に逃げたため、先妻のマサになじられた。 和作は自分のいい加減さを隠すため、妻が子どもを抱えている姿を褒めたたえた。 その年の秋、梅原龍三郎、中川一政とともに日光を旅行し、制作に接した。 大正13年 第二回春陽会展に「夏の果物」を出品し、初入選。 その年に元・貴族の家を購入し、派手な暮らしをしていた。 毎日午後になるとポケットにその頃十円の金を入れてふらりと出かけ、 夜の10時前には帰らないという無頼の生活が始まった。和作の回想にこうある。 私の家内は「あの時代がもっとも派手な生活で幸福そうだったが、実は私には一番悲しい時期でした」と後に尾道に一家が落ちて来たとき、私につくづく訴え「今は幸福です」といって泣いていたが、主人である私の無頼の生活の第一の被害者は、この家内だったわけだから、どんなことをいわれてもまことにごもっともである。 そうしてこの家内は、昭和11年に病死したが、この妻のことを思うと、追惜の情に堪えない。(評伝109「東京の家」より抜粋) その頃、富豪画家として画壇にも二、三名前がでていた。 見境なく援助をしていたため、若い絵描きの取り巻きが多かったようだ。
例えば、 (1)60歳のご婦人が妊娠したとの記事に対して、敢えて「懐妊」のほうに賭け、わざと負け、小野鉄之助に賭け金として100万円渡したり、(2)玄洋少年の大学時代には訪れるたびに自分の絵を渡し、画廊でその絵を売らせて学費にあてさせ、玄洋少年に分からぬように売らせた絵をまた買い取ったり、(3)若い画家のスケッチを買い取ったり、見た目には分からぬやり方で様々な人に援助を与えていた。 大正14年 第三回春陽会展に「伊豆風景」5点ほど出展し、春陽会賞を受賞。そのうちの1点が「花(01−509)」である。この絵の裏話が残っている。 この絵を抱えて電車に乗るときに一緒にいた友達が婚約者ののろけ話しをしていて電車に絵を忘れてしまって、似たような絵をヤケクソ気味で描いた絵が入賞してしまった。 あとで友達・画家竹添履信に「自分の、のろけ話しで絵を忘れて改めて描いたからよかったのだ」と笑いながら言われたらしい。(評伝110より要約)
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