森谷南人子>エピソード | |||||
笠岡、京都、スケッチ帖の中に描かれた 青年南人子の心情 |
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1点のみ南人子の出生地、小平井と地名を明記した絵がある。1916 1−26 小平井村にて(03−501) 笠岡に戻ってきた当時は畑のウネや木の書き方に特徴あり。 少し高台の丘に登って前景に畑や丘、後ろに海や島影などを描いていた。
大正6年 11月東京神田流逸社第二回黒船社展に出品。 この時期、南人子は京都のスケッチをかなり残している。 スケッチ帖(5) 例えば、 加茂川から見る比叡山や市内北部より見る比叡山。 たぶん学校からあった辺りから見る大文字山。
京大周辺の洋館の町並みより見る大文字山。 右側から連なる三十六峰にひときわ高くそびえる峰の形、峰を三角に伐採し、大文字焼きをする形に見え、山の形が華岳「二月の頃」の大文字山の形と一致するところから大文字山と推測できる。南人子の学校も京都御所の一角にあったことから大文字山はその画学生にとって非常になじみ深いことが推測される。
下鴨出町柳あるいは丸太町あたりの風景。 当時の画学生の溜まり場で、京都への未練を断つために、 踏ん切りをつけるためのスケッチだったようだと思わせるページだ。
大沢池畔がある。梅雨の日・吉田にての絵もある。
清水寺。 淀川附近。 淀川附近の洪水の後。 10月から11月にかけて、東山三十六峰の禅宗寺附近の絵ではなかろうか (03−330)道をゆく修業僧のような人物あり。 南人子にとって、画学生にとっての比叡山や大文字山とは・・・・ 比叡山や大文字山辺りの絵の参考として、 村上華岳が描いた卒業制作の絵「二月の頃」題材を大文字山とした作品に感化された 小林和作「銀閣寺附近」を描き、南人子もその後、同じ場所を描く。 何故3人が同じ場所を選び、それを表現したか、興味深い。 華岳と和作の絵については評伝73と和作の随筆「村上華岳のこと」にくわしく書かれている。 スケッチ帖(5)は京都のためだけのスケッチノートではなかっただろうか。 なぜなら大正6年の絵があった後にノートの中ごろに大正5年6月と書かれた京都らしき絵がでてくる。 山並(遠くに高く連なる山並が京都に思える)この絵は完成後に墨でぬりつぶされている。画家が完成した絵を自らぬりつぶすというのはどういう心情だったのだろうか。 このスケッチ帖には他にも2点墨でぬりつぶした絵がある。 スケッチ(5)9ページ(03−334)水彩画で鉛筆の素描も非常に優しいタッチである。 大方にして南人子が描く水彩の特徴は、心情的に、また心の現風景的なものに対しては非常に薄い着色をする傾向がある。 おそらくこのスケッチも彼の大切な現風景であったのだろう。 「風景四」という大正初期(学生時代と思われる作品)油絵がある。 当時、セザンヌに影響を受けた油絵も残している。
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