森谷南人子>エピソード
雅号・南人子とは、ゴーギャンの南方楽園志向に
影響されたものか
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森谷南人子

子の字は男性につける尊称のようなものであり、
また南人は南の国の親しみを持って接してくれる住民という意味ではないか。
南人子と雅号を定めた大正初期はゴーギャンの南方楽園志向が紹介され、先輩画家の土田麦僊などがその影響を受けた作品を残していること。
さらに小野竹喬らによる南画の再認識によって生まれた新しい表現方法があった事は興味深い。

「南郷」
「南郷」(図録より転載)


同年に南人子も「南郷」の絵を残している。
描かれている絵の雰囲気が和作「志摩波切村」に似ている点も非常に興味深い
上半身裸の若い女性で海女であろう。
当時こぞって京都の画学生が波切村に行っている。
土田も和作と一緒に行って、「海女」という作品を残している。
村上華岳にも作品がある。南人子も行ったのではなかろうか?
多くの画学生はゴーギャンの南方楽園志向に感化され刺激を受けた。
南人子は尾道に居を移してから盛んに桃畑の絵を残しているが、
ゴーギャンの南方楽園志向や、陶淵明の描いた「桃花源の記」に表される人生の理想郷を
南人子は風景の中に見たのではないか。
(「桃花処々(03−549)」と「春野・下絵(03−547)」)

03−549「桃花処々」
03−549「桃花処々」

「春野」
「春野」(図録より転載)

この春野・下絵に描かれている、畑に寝転ぶ男女の姿(男性は学生風・女性は農婦)はゴッホやミレーの絵の影響を彷彿とさせる。

03−004「三好宗太郎くん」
03−004「三好宗太郎くん」


下絵の学生風男子は(三好宗太郎くん・昭和13年5月17日(03−004)
タイトルに個人名があることに非常に興味を抱くのです。
南人子はスケッチ帖の中でもかなり小さな鉛筆画で農民の動きをスケッチしている。
そのスケッチにはミレーやゴッホと似たものがある。彼らが農夫に抱いた思いは、労働と実りと収穫。生きること其のものだったのです。
南人子が描くその農村の風景は、働くことへの美と、実りの美。ただ非常に少ないのが収穫の美はあまり表現されていないのです。実りを迎え気持ちが安堵した叙景ばかりが目に飛び込んでくるのです。
南人子の農村の絵を見ると、誰でもが自分の中の原風景や懐かしさを思い出させて、温かい気持を持てることが南人子の絵の魅力ではなかろうか。

その当時美術というものは美しいもの、部屋に飾るものとして意味があったわけで、
貧しい農民の姿を描いて何の価値があるのかと非難されていたが、
そういう中で農民の姿を描いた画家たちは農民馬鹿と呼ばれ、
反骨の精神があると本人たちは自負していた。

03−230 03−229
03−230 03−229
03−228 03−204
03−228 03−204
03−205 03−206
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03−207
03−207
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