平田玉蘊>エピソード
一、はじめに
池田明子
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平田玉蘊  天保三年(一八三二)、江戸で『画乗要略』という近世画人小伝が出版された。室町時代の土佐光起に始まる二百八十名中、女性画家は二十二名。その一人に玉蘊が選ばれた。著者白井華陽は、選別の理由としてその人となりにも考慮したと記している。この時玉蘊は四十六歳、瀬戸内の商港尾道に生きる女性画家として、快挙と言えよう。
 玉蘊が生まれたのは天明七年(一七八七)、北前船の寄港が始まってほぼ百年後、尾道が最も繁栄を謳歌していたときである。生家はいまのJR山陽本線尾道駅にほど近い木綿問屋福岡屋、姓を平田という。通称を豊、あるいは章(あや)といい、玉蘊と号する。玉蘊の訓みは玉をつつんで内に輝くという意味から考えれば「ぎょくうん」だが、尾道では「ぎょくおんさん」で通っている。二十歳で父を喪ったあと、絵筆一本で家を守り、生涯嫁ぐことなく六十九歳で没した。安政二年(一八五五)、ペリー来航の翌年である。
 数多くの作品が残るにもかかわらず、玉蘊の名はスキャンダラスな語られ方しかされなかった。明治維新、皇国史観と、一度ならず二度までも歴史を動かした男、頼山陽の恋人として興味本位に取り沙汰されたためである。リベラリスト山陽にとっても昭和十年代のフィーバーは迷惑だったに違いないが、その英雄伝の彩りに使われた玉蘊はもっと無念だったろう。
 平成六年(一九九四)六月二十日、玉蘊の命日に菩提寺持光寺で第一回玉蘊忌がいとなまれた。地元での復権が始まったときである。以来、毎年回を重ね、ついに本展開催の運びとなった。いままで「なぜ、玉蘊は忘れられたか」という切り口で誤解をとくことに終始していた玉蘊研究は、本展を機に新しい段階を迎えた。
 江戸ブームと言われた久しいが、まだ私たちは知らないことが多すぎる。富国強兵から経済大国へと、効率優先を旗印に、江戸時代の多様な混沌をないまぜにした価値観は否定され続けて来た。玉蘊の生き方もまた、ゆがめられた事実をゆがめられた価値観で噂されていたに過ぎない。
 甥を亡き父の養子にして家を継がせ、弟子として教育する。三十代の一時期、年下の恋人と同棲するが、仕事や住まいを変えようとはしない。サロンの主要メンバーとして目され続け、ライフワークを全うした。
 玉蘊の生き方をこう表現すると、江戸時代にこんな女性がいたのかと驚いてしまう。「家にありては父に従い、嫁しては夫に従い、夫死しては子に従う」という三従の教えに縛られた女性ばかりでは決してなかった。この分野の研究も、まだ緒についたばかりである。
 とはいうものの玉蘊の生き方は傑出している。玉蘊のような女性が尾道に生まれ育ち、尾道を活動拠点とし続けたことは偶然ではない。古来、尾道水道を大陸からの文化が通り、国際港として賑わい続けた尾道の歴史、富と文化の集積が、玉蘊を生み育んだ。お上に追随しない心意気が、玉蘊の生き方をサポートしたと言える。
 明治維新以来の中央集権的発想のもと、玉蘊は誹謗され、忘れ去られた。いま市制百年を機に尾道はしなやかに輝き始めた。金太郎アメ的思考ではなく、多様な価値観を認める懐の深さ、目利きとも呼びたい心憎いばかりのセンス。このとき本展が開催され、玉蘊が正当に評価される機会を得たこともまた、決して偶然とは思えない。
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