平田玉蘊>エピソード | |||||
「桐鳳凰図」「富士図」・・・大成から充実した晩年へ。 | |||||
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1834年尾道では山陽や玉蘊の友でありスポンサーのインテリ豪商の橋本竹下が、難民救済事業として慈観寺の本堂再建を行った。玉蘊の本堂襖絵「桐鳳凰図」が描かれたのは、このときに違いない。 壮大で華麗な絵には、かつての軍鶏の面影はもうない。ひたすら悠々と自信に満ちたその姿には玉蘊の安定した状態が反映されているようである。金箔の上に黒々と残る落款が画工としての高い自信が感じられる。 続いて福善寺にも「雪中の松竹梅」という大作を残している。「桐鳳凰図」と同時期と思われる。その時すでに玉蘊は50歳を目前としている。 「戦後まもないことでしたなあ。当時70歳前後の人が、祖父が子どものころ玉蘊さんが毎日通って来て描くのを見ていた、と言うとりました。絵描きは妙なところから描き始めるもんだ。とんでもないところから絵の具を塗りつけていく。かと思うと、前にちょこっと塗ってあったものが、どうかすると花になる。そんな話をしておりました」(上掲書) 多くの文人が玉蘊の容姿やそこから生まれる作品に賛詩を寄せているが、この言葉は生身の玉蘊を語った唯一の言葉としてより一層、画家「玉蘊」を感じさせてくれるような気がする。
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