尾道の浄土寺は足利尊氏と深いご縁があります。
先ずその寺紋の「二つ引両」は、足利家の家紋でもあります。浄土寺が尊氏と深い関係を持つに至ったのは南北朝時代のはじめ、建武三年(1336)のことでした。
建武の乱に京都付近の合戦に敗れた尊氏は、一旦西国へ立ち退いて再挙を図ろうと兵庫から海路西へ下りました。
その時尊氏は再挙東上のことを考えて、山陽道には播州に赤松円心、瀬戸内の海路には讃岐に細川一族を配し、内海中央の要津である備後の鞆浦と尾道には足利の一族で重臣である今川三郎
・同四郎の兄弟を据えて、海路の上下の安全と、近隣水軍の招撫に当たらせました。
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尊氏が船を鞆浦に寄せた日に、予て都にあって尊氏のために活躍していた醍醐寺の三宝院賢俊が、持明院殿の院宣と錦旗を捧じて来春、これを尊氏に授けました。
尊氏は早速その錦旗を船の帆柱高くかかげますと、折柄の夕陽を受けて燦然と輝く錦旗を拝して全軍歓呼してこれを仰いだと申します。
つづいて尾道に船を寄せた尊氏は、浄土寺に参詣し、本尊十一面観世音に戦運の挽回を祈願し近傍から兵を集め船手をつのりましたが、尾道西郊吉和浦の人々は、尊氏の船頭を務めて尊氏を筑前芦屋まで送りました。尊氏は備後国得良郷の地頭職を浄土寺に寄進しましたが、彼の見事な花押のある寄進状が今も宝物殿に保存されています。
こうして九州に下った尊氏は三月二日、筑前多々羅浜で菊池武敏と九州の覇権を賭けた決戦を試みましたが、折柄北の烈風を背に負うという天運に恵まれた尊氏は奮戦の末、菊池の大軍を破って要衝大宰府を占拠しました。この日の決戦に先陣を駆け、抜群の手柄を立てて尊氏から「西国一番の働き比類無き者成」と激賞されたのが、浄土寺で尊氏の旗下となって九州に下った備後国の杉原又太郎信平
・弟又次郎爲平でした。
一ヶ月程で九州を統一した尊氏は、京都にある宮方と天下の権を争うため、水陸数万の大軍を率いて東上の途につきました。
その途中、再び船を尾道浄土寺に寄せました。これは建武三年の五月五日。時あたかも端午の節句でした。
梅雨晴れの玉の浦―尾道水道には数知れぬ兵船が舷を並べて二引両、四つ目結、輪違いなど家々の定紋打った旗船印は潮戸の潮風に吹き乱されて壮観を極めていました。
弟の直義、重臣源頼貞、側近藤原高範、軍中僧の桂芳法師を従えて、浄土寺下に上陸した尊氏は高い石段を登り新築の山門をくぐって嘉暦再々建の木の香もまだ新しい本堂に参詣し、本尊十一面観世音菩薩に戦勝を祈願しました。
浄土寺では今も本堂脇陣を「尊氏参籠の間」と称しています。
一万巻の観音経の讀誦を終えた尊氏は方丈の間に寛いで、院主道謙をさし招いて筆硯の用意を命じ観音経の偈をさぐって詠題を求め、
院主道謙をまじえた六名で三十三首の観音法楽の和歌を詠じ、これを一巻に浄書して、本尊菩薩の宝前にお供えしました。
今、宝物殿に蔵せられている一巻を繙いてみると、第一首院主道謙の次に左兵衛督源尊氏と署名し 「弘誓深如海」の題で
「わたつみのふかきちかいのあまねさにたのみをかくるのりのふねかな」
と詠じています。
この一巻に尊氏の自詠は七首あります。
尊氏このとき三十二歳。
新田左中将義貞 ・楠木河内判官正成ら宮方の精鋭との天下分目の決戦を二十日の後(湊川の戦は五月二十五日)に控えて、この雅懐は眼中既に敵無き綽々たる余裕振りを示しております。
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