青年期の山陽

頼山陽居室
頼山陽居室
 頼山陽が活躍した一九世紀前半は、幕藩体制の矛盾がますます顕著となり、崩壊への道を歩みはじめた時代である。
 山陽は、広島藩儒・春水の長男として生まれ、才能にも恵まれていたが、精神的に不安定な青年期をおくっている。寛政十二年(一八〇〇)、二十一歳の時に脱藩し、連れ戻されて杉ノ木小路(現・広島市中区袋町)の屋敷の一室に幽閉され、廃嫡となった。
当時の封建社会においては、この時点で社会的に抹殺されても致し方ないような状況だったが、結果的には自由の身となり、学業に専念できるようになったのである。山陽は、「仁室」と呼ばれたこの居室内で読書と著述に励み、歴史書の執筆を志して、『日本外史』の草稿を書き上げている。
 謹慎が完全に解かれたのは、五年後の文化二年(一八〇五)である。この頃の山陽は、将来への希望と不安、現在の境遇への不満など、相当な精神的葛藤があったようで、同四年七月七日の菅茶山に宛てた書状に、その心境を吐露している。
 山陽は、文化六年十二月に菅茶山の廉塾に迎えられ、茶山に補佐する都講として、塾生の教育にあたっている。しかし、この境遇に満足できず、同七年七月二十六日、広島藩の重臣・築山捧盈に宛てた書状「『頼山陽書翰集』上巻・六十四頁」には、「古より学者の業を成し申す地は、三都の外はこれ無く候」と述べ、上京の意志を明らかにしている。結局、同八年十二月に廉塾を去って上京し、以後の半生を京都で送ることになったのである。


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