小林和作>エピソード
雅号は霞村。
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小林和作


01−495「椿に四十雀」
01−495「椿に四十雀」
10月第4回文展に「椿に四十雀(01−495)」が入選。
霞村として、初出品が初入選し、六十円で買い手がついた。学生時代絵の成績はぱっとしなかった和作だが、喜びと高揚感で一杯になり友人たちと豪遊し、塩原方面へ初めて写生旅行に行ったりもした。
エピソード(評伝67):「当時はまだ公募展が少なかったため、入選しただけで手が震えるほど高揚した」という。


この文展は明治40年に文部省が始めた全国規模の公募展で、現在は日展に引き継がれている。


大正2年 3月、京都市立絵画専門学校卒業。
小林和作 画像

春、三重県志摩郡波切村(現在の大王町)に写生旅行し、現地で土田麦僊と会い、 一緒に写生した。麦僊が現地でモデル料を吊り上げたため、後の画家たちが困ったというエピソードもある。その「志摩波切村(01−492・493)」が同年秋、第7回文展に入選し褒状を受賞した。
→本ホームページ「雅号・南人子とは、ゴーギャンの南方楽園志向に影響されたものか」参照
その際、華岳「夜桜」は落選、麦僊・霞峰は入選したが賞はなし。
エピソード:後に近代日本画を代表する、村上華岳や土田麦僊の傑作が落選や入選にとどまり、和作の絵が入賞までした。この時の華岳の「夜桜」は和作が昭和37年の時点まで所蔵していた。

この時代が日本画家・霞村の絶頂期であった。


小林和作 画像 01−492「志摩波切村(右)」
01−492「志摩波切村(右)」
01−493「志摩波切村(左)」
01−493「志摩波切村(左)」
小林和作 画像
和作は先輩より自分が良い成績を残したことで「うれしいよりも申し訳ない気持でいっぱいだった。」
しかし、「小林の絵は、取材と構図が比較的新しいので好評だった。だが図中の人物の描法がもう少し生き生きとしていたら、もっと面白いものになっただろうね」
という竹内栖鳳の評に救われる。
大正4年 左京区吉田・日仏学院近くの風呂屋の二階を人見少華など絵専のOBで
「華頂画院」と称する画室をつくり、毎日ここで制作にはげんだ。
※村上華岳の第十回文展入選作「阿弥陀」もこの画室で生まれた。
その「華頂画院」は平たく言えば、若手画家たちの溜まり場のようなところだった。
風呂屋の二階が利用されたのは、それまで風呂屋の二階は湯上りの男たちの休みどころとなっていたが、風俗上の理由でご法度となり空いていたからだろう。
大広間で画材や絵具を並べ、屏風大の作品を描くにはうってつけであった。
疲れれば、下の風呂屋で裸の付き合いができる。
そこへ行けば誰かしらおり、絵に行き詰まると後輩の人見少華に筆を加えてもらったりしていた。


日本画家時代の絶頂がこの時期で、その後は落選続き、
日本画家として不安や疑問を持った。仲間は華々しい活躍をしていた。
これではたして日本画家としてやっていけるのだろうか。
疑問と不安が彼の心の中に棲みついた。
和作にとって、最も辛い時代である。
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