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地方画家の生活
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小林和作  私は風景画家で具象派でもあるのだが、風景の現地にカンバスを持って行って油絵をかいたことは、もう二十年ないような気がする。
 昭和九年に尾道に退棲するまでは、油絵は何を描くにも実物を目の前に置いて見なければかけない画家であった。さらに遅筆であり怠け画家でもあったので、その頃は一年の製作枚数が小品も含めて二十枚以内であった。一九二八年から次の年にかけて約一年半ばかり欧州にいた。その時は私としては慾ばってできるだけ努力して絵をかいたつもりだが、持って帰った絵は人物画三、四枚を含めて二十数枚しかなかった。
 そんな風なかき方が昭和九年までつづいたが、その後は現地で油絵をかくのは徐々に止めることにした。それは重い荷物を運ぶ面倒さと、直接に風景を油絵でかいては、天候に支配されて絵を中止することが多いので、その辺を免れるために、風景は紙に鉛筆と水彩で直写し、その上にペンの墨線でアクセントを入れた写生画を多く作ることにした。これなら油絵のごとく絵具の重ね方によって味が随分変わるということもなく、かつ早くて天候の変わらぬうちに一枚の絵を仕上げることができるからである。
 こんな紙への軽い写生画と記憶によって絵をかく習慣をつけていった。しかし始めの頃は随分空疎でかつ下手な油絵の風景画を多くかいたが、だんだんにどうにか纒まっていって、その何年か後では殆ど私の直写の風景の油絵は無くなっていった。
 そうして今日に到っているが、絵をかくのにこんな方法が良いか悪いかはわからぬが、絵をかくのに昔ほど億劫でなくて、手軽に絵がかけるようになったのは事実である。今では年老いて体力は昔と比較にならぬぐらいに衰えているが、一ヶ年に風景写生画を紙に二百枚ぐらいかき、油絵もかなり多くかいているだろう。
 よい絵を少なくかく方法よりも、体質や気質に合った絵を臆せずにかく方法を採ることにしたのである。私の油絵の中にはごく小品のサムホール型が多いが、とにかく多作の方であろう。私は風景画の構図には凝るので、それを捜して全国を歩き廻る方であるが、かくして撰ばれた構図をつかまえると、あとは大体一気に油絵をかく。何日も塗り重ねる方法ではないので一日で仕上がる絵も多い。
 かくて、私の絵は大体構図で保っているようなものらしく、「構図が美しいから好きだ」という人が多い。それから私の油絵は一気にナイフで塗りあげてかいたものが多いので、発色は美しいらしい。こんな風で、私の絵は根本的にはどうかは知らぬが、構図と色が美しいらしいので、素人の間では割合に評判がよい。
 しかしナイフでかく絵は色沢はよいが、どこかとげとげしくて、真の落書きがないような気がするので、この方法を止めて、セザンヌ流に入念に色を籠めて行く方法に返りたいと時々思うのだが、ついまた目前の事情に追われて早描きの方法を捨て得ずにいる。
 そうして、今のように風景の油絵を家で考え考えしてかくよりは、カンバスを持って現地に行って、別に画策することなく、正直に見たままをかく大正年間の画家のような方法で行けば楽しくかつ不安の少ない絵ができはせぬかとも思うのだが、多年風景を見ずに、家で絵をこね上げる悪い習慣が身についてしまって、もう正直な入念な絵はできなくなってしまった。
 私でも、昔は絵具こそ厚くはなかったが、セザンヌのかき方を尊敬し、できるだけ多くの筆数を重ねて、一枚の絵に随分長くかかっていた時代もあった。パリの画室で、コーカサス人をモデルにした『アルルカン』という絵は、大体毎日かいて一ヶ月ぐらいかかったものである。またエクス・ア・ブロバンスにいたときには五ヶ月間、殆ど毎日現地でかいてできた絵は十枚たらずであった。
 こんなに気の長い絵をかいた時代もあるので、入念に塗り籠めた絵の美しさを十分知っているのだが、いろいろな理由で今の早描きの方法を捨て得ずに悩んでいる。
 私は尾道に三十年も住んでいるので、田舎画家としては生活方法においてもある形態を確立しているかも知れない。第一に、田舎の人と同じ平面上に立って仲よく暮らすことであり、次は頼まれたことは大体引き受けて、あまり気むずかしく振舞わぬことである。私の絵の多作はこの辺にも一部の原因があるかも知れない。あまり豊かそうでもない田舎人が、まとまった金を調達して、私方へ来て絵を頼むのだから、その好意は感謝に堪えず、一年も二年も待たすことは気の弱い私にはできないので早くかき、それが重なって多作になることも多い。
 それから、私は地方の画家が展覧会をするときは私に紹介文を頼みに来るので、それを一年には何十もかく。大体褒めてかからねばならぬが、その中に多少の変化もつけねばならず、まことに困るのだが、その辺で私は大体それらの人々に満足を与えているようだから、どうも画家の中では文章の方は才筆であるらしい。
 それから、私は本来極めて無器用な画家なのだが、田舎住まいが長いのと、頼まれたら大体何でもかく主義なので、今では風景、人物、静物それから日本画、陶画、漆画その他手当たり次第にかいていて、それがあまり下手でもないようなので、それがために、私は近来は頗る器用な画家の一人になったような気がしている。
 私は紙にかいた写生画は世に出さぬことにしているが、油絵の方はかき溜めて置いて、依頼者が来れば何枚か見せて、その中から撰んで貰うことにしている。一枚だけ見せて「これを持って行け」など冷たくかつ地方人の気質に合わぬことは私にはできないのである。こんな風に、私は絵の方も人柄の方も近所の人々には頗る信用があるらしい。
 それで田舎住まいの割には収入は多い方らしいが、私は昔は金持ちだった時代もあり、また没落して貧乏したこともあるので、金銭については他の人とはちがったはっきりした観念を持っている。その金を堪めないでばら撒いて、私の一族や若い友人たちを潤すことにしている。それで私は微力ながら花咲爺的人気があるらしい。考えて見れば、世の中は何をしてもたいした面白いことはないが、中で人の喜ぶ顔を見るのが第一ではないかと思うがどうであろうか。
 私はかくて多作家であり、乱作家だという評判が東京辺で立っている由だが、少しも恐れていない。要は絵が良いか悪いかが第一の問題であろう。一部の日本画家たちのように駄作のできることを極度に恐れて、戦々兢々として絵をかくのは愚であるので、私は臆せずに絵をかく。それがために老来多少の進歩もしているらしい。自惚れかも知れないが七十歳以上の画家でまだ将来の飛躍を楽しめるのは私一人ではないかと思う。
 昔から「一人出家すれば九族天に生ず」という言葉があるが、私の場合は、「一人が多作すれば四隣が潤う」ことになるので、田舎人と調和して生きていくことに専念している私としては、最も必然的な活き方かも知れぬから了解して頂きたい。私は画家としての私よりも、四隣の人々に愛される人物であることを切望する一個の俗人である。
(昭和三十九年)
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