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森谷南人子の人と芸術をめぐって
森谷南人子 大井 健地
1997年2月7日

 いちばん印象に残る作品。それは《初春閑村》だ。
 今から10年と少し前、僕は美術館の人となった。はじめて公務員になったわけでもあった。着任してすぐの仕事として「移動美術館」の担当になった。「移動美術館」……ロシアのレーピンたちの移動派展みたいじゃないか。仕事の実際は県立美術館所蔵品を、「美術展」が開かれる機会の少ない県内の市町村で巡回展をするというもの。役所主体のこの社会教育・文化事業に、全然問題がないわけではないが、新米の僕は張り切っていたし、そしてまた、僕にはいい経験だった。市町村教育委員会の社会教育主事の方々と知り合いになれたり、なにより、用がなければ行かない土地に用務ができて、その開催市町村のたたずまいを知ることができる。まあ、土地感はできる。県庁所在地にいるだけでは見えない「地方」が見えてくる。広島はスキー場も海水浴場もある県だ。
 “東京からやってきた”気負った、いい気の学芸員さんが頭を冷やしてその土地の文化を発見するのにちょうど、よい催しだったのだ。「移動美術館」で最も恩恵を蒙ったのはほかならなぬ、その担当学芸員であったということになるかもしれない。
 僕があんなに張り切って「展示作品解説」に熱弁をふるってもーーまあ、そっぽを向かれたということではないにせよーー神妙に聞いてくださってはいたが、鑑賞の方々の人気は、僕が力んで「解説」しているような作品傾向にはなかったみたい。そして、森谷南人子《初春閑村》は多数の方々に自然発生的に愛される、つまり人気のある作品の代表的な一点なのであった。眼を輝かしてじっーと見ている御年輩の人がいる。それは担当の美術館の人間としてうれしい、甲斐のある時だ。あえて言えば、日頃美術館で絵を見るなんてしない人、あるいは僕が美術関係者と知ると「絵のことはわからんのですが」と初対面の挨拶をされるタイプの人、そのような人こそが森谷南人子の作品世界に容易に没入しやすい、のではないか。僕こそがそのような人の眼を借りて改めてじっくりと森谷南人子の絵を虚心に鑑賞しなければいけないのではないか。
 《初春閑村》の情景はこうである。
 年が明けてもうだいぶ日が過ぎたのに、まだどこか、のんきでのどかな気分が漂っている。それでも野良の様子をのぞいておこうと家を出た働き者の若い農婦に、孫の守りをするおばあちゃんが話しかけている。向こうのほうでは茅葺き屋根の葺き替え中だ。お百姓作業と違う仕事が新鮮、葺き終えたあとの、散髪屋を出る時のようなさっぱりした気分が楽しみである。淡い青空、低空は少しもやっていて、かわいらしいような雲の切れっぱしが、冬枯れ色の丘の並びになびいている。雀が群れてさえずっている路上の端しには、かれんな草花が春の訪れを告げており、桃や椿の花の朱が彩りを添えている。
 《初春閑村》は昭和13年10月、第2回文展の入選作。尾道郊外、高須村太田附近の写生に基づくという。
 当時の時代背景を考えればーー前年7月7日廬溝橋事件、12月13日南京占領、大虐殺事件、この年4月1日の国家総動員法公布、そして文展会期中の10月27日には日本軍は武漢三鎮を占領し、11月3日近衛首相は「東亜新秩序建設」を声明しているーーいかにもこの絵はのどかな画境を提示している。たとえば同じ文展に並んだ藤島武二の《耕到天》が国土や勤労への至誠を壮大に、ある種宗教的にうたいあげているのとは全く別の趣きで、ごくありふれた村の生活を淡々と描出している。日常を描くことによってこの絵は、現代の鑑賞者にも昨日、今日の風景として家郷へのあたたかい思いをよみがえらせるのだ。
 新幹線の車窓で、僕は森谷南人子の絵とそっくりの眺めだなあと思うことがしばしばある。低い視座の在来線でなく、少し高めでそのぶん少し見晴らしのきく新幹線の窓辺の眼の高さだ。森谷南人子は新幹線時代の絵かきではないから、彼は眺めわたせる位置を求めたはずだ。画中の人物と同じ視線ではなく、つまりべったり世俗卑近ではなく、また宙を飛んで生活現実を見下ろし見捨てる非情の視線でもない。俗にあって俗を越えるというのは模範的に過ぎるけれど。人がいて、その人の生活や家族があり、その人の環境と自然観照がある、それらの全体包含する、少し高い視点から眺めわたし取りまとめようとする構図。
 移動美術館で《初春閑村》に出会って感銘した人のうちには農家の人も多かったろう。この村は我が村のことであり、描かれた情景に自分の経験を重ねあわせておられる方もいただろう。だが、作者は農家の育ちではないのである。次に、森谷南人子の生い立ちや生涯をみておこう。
 森谷南人子についての研究、文献資料は少ない。(註1)昭和62年6月18日〜8月16日、笠岡市立竹喬美術館での開催の「田園のうたびと 森谷南人子」展の図録がもっかのところ基本になるもので、そこに収録されている、上薗四郎氏執筆「南人子の画業」をたよりに拙論をすすめる。
 森谷南人子は本名利喜雄、明治22年、現在の笠岡市に生まれる。父の職業は麦稈莫田を扱う貿易商で、その仕事の都合で5歳の時、神戸市に転居している。
 農家の出自ではなく、貿易港をひかえた商業都市住民なのである。遺族によれば「両親も画家になることに積極的であったらしい」という。(註2)何より、森谷南人子本人がなぜ画家を志したか。本人の談が残っている。
 「神戸の尋常高等小学校に通っていた時分、たまたま3年ほど上級に奇才村上華岳さんがおられて、その方と懇意にしていた関係で、村上さんが京都の美術学校に入られるということをきいて、私も是非、絵かきとして同じ道を踏んで行くことに決心し、上洛した次第です」(「画業75年展によせて…」『画業75年森谷南人子展』図録、1980年、尾道市立武術閑)。
 画家を志したのは村上華岳の影響なのである。村上華岳こそ南人子の導きの星として南人子を画業に精進させた存在なのである。もし南人子がついに華岳の一惑星の位置しか占めない画人なのだと辛い早急な仮定をここでしておいても、華岳の精神の高さにまっすぐに接近し、若き日の華岳の才能をより若い南人子が見ぬいていることに、南人子の魂の純粋さがあると僕は思う。
 華岳と南人子と、この2人に共通した生活基盤がある。食うために描く生活、あるいは、食うための生業のために制作に時間をあてられない生活、ではなかったことだ。生計に追われる生活を防ぐ、資産があった。資産が彼らの親にあり、親は息子の画業のために家と家作による収入を用意してくれたのだ。
 事情はこうである。華岳は自分の心に銘記されている親のセリフを自ら文章に書いている。親(義父・村上五郎兵衛)は教師に言う。「倅に画を習わせます。しかし画でもって倅に衣食させることはしないつもりです。私は倅に別の方法を立ててそれで衣食させます。倅は画かきにはなりましょうが、画で衣食する人間にはならないでしょう」。倅の華岳に言う。「画師になるなら、絵で衣食しようという心を捨てる事だ、衣食を離れて画を描くことを忘れてはならない。だからお前には、一生食うだけの物はのこしておく」(『画論』1962年、中央公論美術出版)。
 南人子の場合は前出、上薗氏の文による。「(尾道の)600坪にも及ぶ邸宅は彼の父親(森谷利太郎)が与えたものである。画家になったとしても、多分自力によっては糊口をしのぐことすらできないと推測した南人子の父は、住む家と現金収入を得るための借家を与え、さらには毎年米の仕送りを絶やさずして南人子の将来にわたる生活を支えようとした」というのである。
 何という幸せなことか、というのはじつはたやすくて、その幸せな生活基盤を真に生かして、誰のためでもなく自分が納得し得る表現、迎合しない自分の純粋な表現をうちたてることのむつかしさにこそ僕の関心は向かう。
 華岳が書き記した文集である『画論』を、僕が森谷南人子の立場であると想定して改めて読んで、この極めて倫理的な書物は南人子にどれほどの作用を与えたものであろうかと思う。華岳のように生きることは辛い。『画論』から若干、引用しておく。
 「画は人格の崇高なるものの現れである。」
 「妥協は小さくともしてはならないものである。妥協するがために、尊厳と自由を奪われて了う。」
 「孤独ということを忘れたら、いつも危ない。真に生きるものは常に孤独」
 「純真良心をくらますこと勿れ」。「社会の犠牲となることを厭わず、一死以って社会を教うべし。一身を以って社会を救うべし。/何をするか、――清貧簡易生活」
 「流行作家となるな。また不平家になるな」
 「この人生を正愛の浄土にしたいという願いを願うことだ」
『画論』として出版されたのは華岳没後、昭和16年2月弘文堂書房版が最初であるが、南人子が読んでいないわけがない。また折々に雑誌に発表された収録文をその時点で読んでもいたであろう。南人子は画家として、華岳の生きかたに強く感化されているのである。世間的な成功者になってはいけないという華岳のことばは、南人子にとって呪縛ではなく、励ましであったはずなのだ。
 ここで南人子の住んだ土地を整理しておくと、笠岡(5年)→神戸(11年か)→京都(11年か)→笠岡(4年か)→尾道(61年)となる。いっぽう、華岳についてみると、大阪(7年)→神戸(8年)→京都(20年)→芦屋(4年)→神戸(12年)となる。多くの華岳論をみると大阪・京都・神戸の三都論にたいがいは触れている。南人子についても、笠岡、神戸、京都、尾道という土地の事柄ぬきにその画業はじゅうぶんな考察はできないと思う。が、いまはこの問題は指摘するにとどめる。
華岳が京都を去ってから没年までの深さを増した芸術境地として描かれるのが六甲の山の絵である。『画論』の「山」という文章を引く。
「いつかはこの山に住みたい、思いのままにこの山の懐に抱擁されたいとひそかに願っていた。京都を出る時は実に苦しかったが、子供の時から憶えていた武庫の山々が恋しかった」。「山というものは一見すると単調なものですが、よく見ると非常に面白い。古人の研究の跡がわかります。」。
作風の上では華岳と南人子に共通するところは少ない。モチーフとしての山の絵、丘の絵と言えなくもないが、華岳の内面的心象としての山と、南人子の平明な農村風景とはまるで別種の絵である。そこにはそれぞれの自己の表現があるばかりである。僕は華岳の次のことばなどを南人子の絵についても照らしあわせて、南人子の「精神」を推量するのである。「山を描く秘訣と言うわけではないが、作家としての枢要は、当面の山と、天地の心と、自分の精神と、この三つのものがぴたりと出会った境地をつかむことにある。」
とはいえ、画風の上で、全然没交渉であったとはいえないだろう。華岳の、胡粉を混ぜて不透明にした薄い色味の灰を主調色にした《早春風景》(1919)や《秋林》(1921)のどんよりとした情調は、南人子の《秋の日》(1924)に至る大正期の作品に響くものがあろう。また、南人子の《新冬》(1933)、《野早春》(1934)、《秋村飛鶴》(同)、《浅春麗日》(1935)などのポキポキとかすれつくような渇筆の点々状の線は、華岳の代表作のひとつである《松山雲煙》(1925)にみられる線に類似する。そして《秋村飛鶴》の図とは華岳の前年、1933年の作品、《秋山暮鳥之図》と共通に秋の山稜を飛ぶ鳥の図である。ある呼応の関係を想定しても不自然ではないだろう。
しかし、華岳が「制作は密室の祈り」と言うように、その絵が求心的求道的に深まるのに対して、南人子の制作はこの土地、あの山に向かって広まる性格のものだろう。備後尾道の村里の生活の全体が、四季の移ろいのなかで、自然との調和のうちに表現され、自由人たろうとする画家・南人子の詩心、遊心が徘徊しているのである。
 ところで、年代を最初期に戻すことになるが、気になる一点がある。それは南人子が大正2年(1913)京都市立絵画専門学校を卒業した時の卒業制作、《麗艶》である。南人子に人物画の制作は生涯を通じて少ないーーいま確認できるのは、油彩画《少女》(1913)、版画《婦人》(大正初期)くらいのものだーーのであるが、《麗艶》は、しなをつくってあだっぽい笑みを浮かべる遊び女4人の図であっておよそ、のちの南人子の作風と隔絶した、タイトルどおりに官能的な作品である。前出の上薗氏はあえていえば、「当時密接な親交があった村上華岳が頻繁に描いた浮世絵風の女性像に、若干の根拠を見出せるかもしれない」とする。そうかもしれない。「この作品には画想の契機となった作品がある。美工・絵専両校校友会誌『美』の明治44年9月号に掲載された《美人双陸図》で、仇英と陸冶の合作という明画であるが、この画中の人物は《麗艶》と極めて類似しており、当時絵専の三年生であった南人子が、おの中国画に強い興味を持ったことが想像できる」という指摘が松尾秀樹氏によってなされている(1990年、「近代日本画の誕生と歩み」展図録)。
個性の主張、自我の解放、近代的であろうとする若い表現者たちが、明治末から大正初期、この時代の文化新思潮に大きい関心を寄せる。残存する封建遺制や古い儒教倫理に抗する。人生の真実を求める欲求が起こる。それが現実的には性的官能の問題に直面するのは、むしろ理解しやすい、自然のことである。のちの国画創作協会の若い出品者である甲斐庄楠音や岡本神草の作例、いま帝展出品中の木村斯光の《もだえ》(1918)など、《麗艶》以上にダイレクトに官能的なもっと言えば頽廃的な表現が連動するように噴出することになる。ただし、この官能美、頽廃美というものの追求はその表現者の実生活をもなにほどか傷つけるものである(と加藤一雄もどこかでそんな言い回しをしている)。官能絵画一般に深入りすることを今はさけるけれど、森谷南人子《麗艶》はどうであったか。
 僕はここに見るのは実際の京都にはない、中国の風俗を古画をしっかり勉強して表現している森谷青年の勉強ぶりである。この絵は「勉強して」描かれているのである。青年ががんばって精一杯背のびして、大人ぶって描かれたものだ。慣れ親しんでもいない、仮空の中国の、それも過去の歴史的情景を、想像で緻密に構築しているのである。麗人たちの衣服の模様をはじめ机の象嵌の意匠、テーブル・クロスの模様などの細部まで、ゆるがせにせずきっちりと綿密に描出している。また、右手奥の台の上の牡丹の描写も意欲に満ちている。それら細部を総合して破綻のない一図にしたところに本図に込められた覇気と努力がある。思うに卒業制作というシステムは、若い画学生にふだんとまるで違う、異常な意気込みの異色力作を出現させてしまうような局面が、時に起こったりするものなのだ。勉強して、常の自分の資質とは別様の絵をつくりあげたのが《麗艶》だと僕は解釈したいのである。自分に無理じいをして仕上げた作風は長くは続かない。やがて、本来の自分の資質が自然に流れ出す。官能傾向を追い詰めるには森谷南人子は向いていない。彼はおだやかな健康な感覚の画人なのであった。
彼には押しつけがましさはない。あからさまの模倣はない。頽廃の美でなく健康の美である。自分の感覚と一致した風景であり、そこには「自分」がある。自分らしさのある、つまりオリジナルな風景である。
生活と自然が融合した詩情のある理想郷であり、それは日本の山河の再確認をうながすものでもある(たとえば森田恒友などをはじめとするいわゆる新南画の精神と通ずる作風として近代の日本画の歴史に位置づけることもできる)。森谷南人子は自由人であった。とりわけ戦後、地方にあっての画人生活は野の逸民たる気品を発散している。
南人子に関しての次の伝聞を僕は愛している。それは、南人子宅に手紙を届けた郵便配達夫が、言ったという。「このうちには仲のいいおばあさんがふたり住んでいる」と。備後尾道の一角に平和な隠者のように森谷南人子は生き、描いたのであった。
           (広島市立大学国際学部助教授)

(註1)南人子論は少ないが、村上華岳論はわんさとある。その多数の華岳論中に南人子の像を僕は求めたがみのり少なく、あては外れた。最も秀れた華岳論は加藤一雄の筆になるものだと僕は信じるが、そのウロボヌス的名美術評論書『京都画壇周辺』(1984年、用美社)に森谷南人子は姿を見せない。かわりにというのもなんだが、楠瓊州に触れた記述がある(「美術細談」618−621頁)。瓊州は「日本最良の世俗的桃源境」、瀬戸内海地方「備後の尾之道の人」とある。備忘のため註した。

(註2)南人子の父の職種、貿易商に関し、この時代の神戸の実業界一般について次の記述がある。「海外貿易の拠点として栄える神戸の実業界は、大学や高商を卒業した多数のエリート・サラリーマンが活躍する都会であった。彼らの多くは貿易に従事していて、海外勤務の経験者も多く、国際的な視野をもつ知識人である」(増田洋「村上華岳 六甲山の画家」、『近代美術の開拓者たち(3)』1981年、有斐閣)。すなわち、晩年の華岳の絵を高く評価し愛蔵するのがこの人たちなのである。南人子の父、森谷利太郎の生涯や華岳との関係については、僕にはよくわかっていない。