平田玉蘊>エピソード
「桐鳳凰図」「富士図」・・・大成から充実した晩年へ。
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平田玉蘊
g−042「桐鳳凰図」
g−042「桐鳳凰図」(慈観寺蔵)
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そして玉蘊は前述の『画乗要略』で紹介され、名実共に女流画家としての大成の域に入っていく。

1834年尾道では山陽や玉蘊の友でありスポンサーのインテリ豪商の橋本竹下が、難民救済事業として慈観寺の本堂再建を行った。玉蘊の本堂襖絵「桐鳳凰図」が描かれたのは、このときに違いない。

壮大で華麗な絵には、かつての軍鶏の面影はもうない。ひたすら悠々と自信に満ちたその姿には玉蘊の安定した状態が反映されているようである。金箔の上に黒々と残る落款が画工としての高い自信が感じられる。

続いて福善寺にも「雪中の松竹梅」という大作を残している。「桐鳳凰図」と同時期と思われる。その時すでに玉蘊は50歳を目前としている。

「戦後まもないことでしたなあ。当時70歳前後の人が、祖父が子どものころ玉蘊さんが毎日通って来て描くのを見ていた、と言うとりました。絵描きは妙なところから描き始めるもんだ。とんでもないところから絵の具を塗りつけていく。かと思うと、前にちょこっと塗ってあったものが、どうかすると花になる。そんな話をしておりました」(上掲書)

多くの文人が玉蘊の容姿やそこから生まれる作品に賛詩を寄せているが、この言葉は生身の玉蘊を語った唯一の言葉としてより一層、画家「玉蘊」を感じさせてくれるような気がする。


玉蘊自身にも晩年の69歳の正月に描いた富士図が、少なくとも3点残っている。
静謐(せいひつ)な雰囲気の漂う水墨の富士山には「乙卯春日写百岳贈諸君(乙卯(いつぼう)春日、百岳を写し以て諸君に贈る)」との款記に続けて「七十玉蘊女史」と、実年齢より一歳年上の年齢が記されている。款記の「百岳」から、このとき玉蘊が相当数の富士山を描いたことが想像できる。この半年後の6月20日に玉蘊は亡くなるのだが、死を予感した上での病中の作とは思われない。富士の稜線にはいささかの乱れもなく、余命いくばくもない老女が描いた作品とは思えない。むしろ玉蘊は友人に囲まれて楽しい雰囲気のなかで、自らの長寿をことほぐ気持から「七十」と記したのだろう。(上掲書より要約)
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g−045(図録より転載) g−046
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その墓碑名は「平田玉蘊」、位牌は戒名の裏に「平田章(あや)」とあり、誰それの妻、或いは娘ではない。一人の女性画家としての生涯を全うしたのである。(上掲書) g−049
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